sanriyama
三里山について
北新庄地区のシンボル
三里山
北新庄地区の北に位置する三里山。朝に夕に仰ぎ見るふるさとの里山、三里山は、周囲が約3里あることからこの名が付きました。厳密には三里山(346m)、南三里山(334m)、行司岳(311m)の主な三つの峰からなっています。
三里山の紹介ページ
1.椿山城・椿山出城跡
標高174mの山上に椿山城跡があり、『越前国城跡考』 にも記載されている。椿山城から城山(戸谷町)と西樫尾に下る道がある。西樫尾に下る道には椿山城の堀切 と郭 が残っている。椿山出城は椿山城の下方にあり、堀切、櫓、郭が残っている。両城は粟田部街道を監視する目的で建設され、中世では重要な軍事施設であった。
2.城山古墳石室と大円寺古墳石室
城山(戸谷町)に5世紀頃に造られた城山古墳があり、石室 がむき出しになっている。15世紀頃、椿山出城築城のため、墳土 が削られ石室の天井石が持ち出されたと考えられる。戸谷墓地の奥にも大円寺古墳が一基あり、墳土が流れ出し、石室がむき出しになっている。これはおそらく円墳と考えられる。
3.長福寺跡
椿坂の南に長福寺の地名が残っており、約100m四方の敷地に階段状の平地が残っている。伝承によれば天台宗大瀧寺(現在の大瀧神社)の草創十二坊 の一つである長福寺があり、泰澄(⑦)が開いた寺院であった。文明3年(1471)に起きた新庄保鴨宮 の戦い(別名椿坂の戦い)で類焼し廃寺となったと伝えられている。
4.椿坂(通称猫坂)と古道
標高174mの山上に椿山城跡があり、『越前国城跡考』 にも記載されている。椿山城から城山(戸谷町)と西樫尾に下る道がある。西樫尾に下る道には椿山城の堀切 と郭 が残って三里山西側を通る古道は、塩売り街道とよばれた主要な交通路であった。三里山のすそのが西北側にせり出し、浅水川で削られた崖地を越して椿坂は南北に通じている。文明3年(1471)8月24日、この地で朝倉軍と甲斐軍 が戦い朝倉軍が勝利した。この戦いは新庄保鴨宮の戦いと呼ばれ、朝倉軍は百名前後の敵を討ち取り、この戦いで朝倉孝景は越前国国主の地位を決定的なものとした。
5.市川鉱物研究室
水晶の研究で知られる世界的鉱物学者市川新松氏(1868~1941)が建てた研究室。大正4年着工、同7年竣工。耐震構造に配慮した木造2階建てで、文化財的価値のある建造物。氏の研究成果が世界的に認められて以後の研究活動の拠点。氏が国内外から収集したり寄贈されたりした鉱物や岩石の標本類、専門書、研究報告書等々が整然と分類保存されている。鉱物研究の分野では世界的にも極めて貴重な資料である。
6.柴田城跡
『越前国城跡考』には「柴田修理亮、中新庄村より東山下に東西四町南北五町計之所、土居堀 之形有之、内大手 櫓台 之形有」と記され、大手に櫓を配し土居堀をめぐらした広大な城跡である。城跡考が記す修理亮とは柴田勝家の官職名である。勝家は北の庄で天正3~11年まで越前を支配したが、その8年の間に築城を企画施工したのであろうか。
7.泰澄の霊水
御手洗瀧(中新庄町)に泰澄 が開いた霊水と伝えられる水飲み場がある。ここを通る参道の右手山上には泰澄が修行したと伝えられる高源寺跡(⑨)があり、左手の権現山(中新庄町)山上には稚子権現堂跡(⑧)がある。泰澄は高源寺と戸谷修法地を毎日往復し、戸谷の浅水川河原で修法 した時ついに感得 し、大瀧寺(現在の大瀧神社)を建てたと伝えられる。
8.稚子権現堂跡
水権現山(中新庄町)と堂の奥(下新庄町)にまたがる標高283mの山上に南北50m東西35mの平地があり、幅7m長さ25mの台地がある。これは長床という修験僧の修行に用いる建物があった跡とみられる。長床を同心円状に取りまくように西方と南方に僧坊跡があり、下新庄との地境の尾根には幅5mほどの参道跡も残っている。古代から中世にかけて用いられた修験道遺跡と考えられる。
9.高源寺跡
三里山の標高282mの山上(中新庄町、国中町、中津山町の交点)に南北75m東西35mの平地がある。伝承では8世紀に活躍した泰澄(⑦)が修行した地で、高源寺を当地に創建したといわれている。後年この寺は廃れ、中新庄高源山放光寺 の前身だったといわれている。高源寺跡北側の権現山(中新庄町)には稚子権現堂跡(⑧)が残っており、当地の関連施設とみられる。
10.展望台
南三里山(標高334m)の山頂に、周りの景観にあった屋根付の高床式展望台がある。大きさは床が2.2mの正方形、高さ4.5mと小さいが、風雪に耐えられるように鉄骨と木造を組み合わせ、樹脂加工をほどこした造りになっている。中には3人掛けの長椅子が2脚あり、休憩しながら市内を一望することができる。
11.南三里山からの展望
三里山では最も展望が良く、南東に市内大半の眺望を楽しむことができる。眼下には北新庄小学校や、東高等学校が飛び込んで来る。静かな里の家々・整備された緑の美しい水田・そして南の日野山から西の鬼ヶ岳などの山並みと青い空がとても素晴らしい。耳を澄ましていると、小鳥のさえずりや虫の音が心地よいさわやかな風と共に耳を撫でて行く。正に自然の癒しである。
12.三里山尾根縦走
三里山尾根筋から見る景色は東に旧今立町の町並みや奥越の山並み、遠くには白山連邦がある。北に福井市、西に越前町、すぐ眼下に高速道路やサンドームが飛び込んでくる。尾根筋は広く階段が十分に整備されていて子供から高齢者まで手軽に楽しめる。独立峰で遠くから牛のように見える山で急な登りは少なく縦走には最適である。
13.薄墨桜
昭和45年5月8日福井県天然記念物指定の老桜。樹の廻り4m50余、幹の高さ9m余を有す。桜を愛玩された男大迹王子(継体天皇)が即位のため河内の国、樟葉の宮に上京の折、神社に形見として残された桜を世人は筐花と言い伝える。後に俗風を染まるのをおそれて、人跡まれな現在の地、皇谷に移し植えたと言われている。
14.花筐公園
越前 粟田部に名勝あり 三里山と花筐公園は季節を彩る夢絵巻 四季折々の風情を、楽しめる豊かな自然と、継体天皇の恋物語、能の謡曲「花筐」より命名され、継体天皇の妃、佐山媛の御所があったとされる花筐公園。自然と歴史の織り成すドラマは、時を超える感動をあたえる。春の桜に、秋のもみじ、花筐公園の春夏秋冬を堪能できる。
15.逢坂山公園
三逢坂山は野岡町の獅子返しの神事の行われる白山神社の境内から遊歩道を登ると約10分程度でつく小高い丘である。ここは地元の人が整備した公園になっていてここから三里山の行司ヶ岳への登山道ものびている。またこの公園には桜、つつじ、もみじが植えられていて年中地元の人々の憩いの場所になっている。そのほか野鳥の観測もできる休息所も設けられハイキングに最適である。
16.洗足の滝
御手洗瀧(中新庄町)に泰澄 が開いた霊水と伝えられる水飲み場がある。ここを通る参道の右手山上には泰澄が修行したと伝えられる高源寺跡(⑨)があり、左手の権現山(中新庄町)山上には稚子権現堂跡(⑧)がある。泰澄は高源寺と戸谷修法地を毎日往復し、戸谷の浅水川河原で修法 した時ついに感得 し、大瀧寺(現在の大瀧神社)を建てたと伝えられる。
17.お面さま(木造追儺面)
これは木造追儺面 で、追儺会に使われる鬼の面は、父鬼、母鬼、子鬼の三面からなり、鎌倉時代後期の作と伝えられている。深くえぐった凹面を組み合わせたような肉取りにひょうきんな趣きがあり、薄手の上質なヒノキ材に良質な漆と金ぱくを用いて仕上げられた逸品で、1972年に国の重要文化財に指定された。三面そろっているが、黒漆塗りの母鬼だけは、後世に大きく補修されている。
18.雨降神社跡
1300年前泰澄大師(⑦)は、加賀の白山を開かれ、白山信仰、山岳宗教の大道を広めた。即ち、白山を最高の霊山として、これをとりまく山々に仏像を刻まれて安置された。越知山、平泉寺等もその一山であり、三里山の一峯にも、帝釈天を刻まれて祭神とし神社を建立された。大旱魃の時には、近郷近在の男女がお詣りし、鰐口や太鼓を打ち鳴らし、天を仰ぎ「雨賜れ、賜れの!」と大声で何回も叫び祈願した。
19.三つ岩
御「三つ岩」は、地区民にとって神霊にふれる場所であり皆に誇れる巨岩でもあった。古老の伝えによると、田仕事が終わったあと、御神酒を持ち登り、和やかにひと時を過ごし英気を養ったという。三つ岩の真上に古墳が発見されたが、ここからの眺めは、鯖江市・福井市方面もよく見え、昔、物見台や連絡のための「のろし台」があったところといわれている。
20.新庄山(新村山)の銅鐸
大正3年6月に新町地籍、石山の南斜面で村人3人が石材をとり出す為に表土を取り除いたところ、約60㎝の深さのところから銅鐸が1個発見された。その他の埋蔵品は一緒に出たとの記録はないが、近くで弥生式土器が見つかっている。銅鐸の発見された斜面は戦時中の地下工場建設の為、削り取られて消失したと村で伝承されている。銅鐸は東京の国立博物館で所蔵。
21.帝釈天古道とため池
里山の帝釈天古道は四季折々の自然に彩られる。剣神社から50m程南の登山口から山に入る。すぐに小さなため池を擁した棚田が有りカワセミや、ヘイケボタル、モリアオガエルの卵塊を見る事が出来る。明るい落葉樹の谷間にはカタクリ、シウジョウバカマが、続く鳥越えの尾根にはマンサクの花が咲き乱れる。山腹を横切るドングリの小径を東へ進み石切り場のノミ痕に先人の苦労を偲びつつ下山すれば、蛙の楽園山田の堤に出る。